「戦国・江戸元号並べ」攻略のヒント

「戦国・江戸年号並べ」は元号(年号)をならべかえるアプリです。
プレイする際の助けとなる、改元に関する情報と対象年号での出来事を紹介します。

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改元について

改元のさいには、何人か年号勘者を定めて各自いくつかの新年号案を提出させます。公卿たちは「陣定(じんのさだめ)」という会議を開き、案の適否について議論を行い(難陳)、案を一つに絞ります。その年号案を天皇が認め、詔書をもって公布されました。

改元は以下のような場合に行われました。

  • 天皇の代始め改元
  • 祥瑞改元
  • 災害を理由とした災異改元
  • 辛酉年・甲子年の革年改元
    祥瑞を理由とした改元は奈良時代に良くあらわれますが、のちの時代では見られなくなりました。災異改元で対象になったのは京における大火・地震・疫病などでした。ただし、江戸時代に入ると、江戸での災害も対象になりました。

室町時代以降、改元への武家方の関与は深くなっていきました。武家方からの申し入れ、選定がみられるようになります。江戸時代になると、朝廷はあらかじめ絞り込んだ年号を幕府に提示し、それらの年号から幕府が主導して選定しました。そののち従来通り、公卿による陣定(じんのさだめ)で難陳が行われましたが儀礼的なものでした。

辛酉年・甲子年の革年改元

年をあらわすのに、年号使用以前から干支を用いる方法が使われていました。
干支とは、
十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)
十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)
を組み合わせて60種にしたものです。甲子から始まり、乙丑、丙寅と進みます。
干支が辛酉にあたる年、甲子にあたる年には讖緯(しんい)説で大きな変革がおこるとされ、その難を避けるために改元が行われるようになりました。


応仁

応仁の乱(応仁・文明の乱ともいいます)。
応仁元年(1467年)、有力守護の細川勝元と山名宗全の対立が深まり、京で戦が勃発しました。
京での陣地の位置から、細川勝元方が東軍、山名宗全方が西軍と呼ばれました。
諸国の大名・小名が東軍、西軍に分かれ、全国へ争乱は拡大しました。
京都での戦火が収まるのは文明9年(1477年)となります。

文明

戦乱が続く中、多くの公家が京を離れました。人員を揃えるのが大変とあって仗儀を行わない改元も検討されましたが、反対があり仗儀は開かれました。後土御門天皇は、内裏から避難して室町第(将軍邸)に移っていたので、そこでの改元を行って良いのか問題になりましたが、室町第を内裏と見立てることで行われました。

文明5年。山名宗全死去。細川勝元死去。12月、足利義政が足利義尚に将軍を譲りました。
文明9年(1477年)。京での戦闘が収束。

応仁・文明の乱の結果、幕府の支配域はせばまり、畿内中心の政権となりました。
守護代層や有力国人が台頭し、領主化する者も現れました。守護は在京が原則でしたが、領国へ下り直接支配を試みました。
各地の荘園で在地勢力による横領が進み、公家の収入が断たれることとなりました。
有力守護で畿内近辺に領国を持ち内訌がなかった細川家が、幕政に強い影響を持つようになりました。

長享

長享元年(1487年)。足利義尚が、近江の六角高頼討伐のために出陣しました。
長享3年(1489年)。足利義尚は、近江鈎(まがり)で陣没しました。

延徳

延徳への改元は、足利義尚の死去を理由として足利義政が朝廷に申し入れて行われました。

足利義尚が亡くなったあとは、義政が政務を取りましたがすでに体調が衰えており、翌年なくなりました。
将軍位を継いだのは、足利義視(義政の弟)の子である足利義材(のちの義稙)です。

明応

疾病流行を理由とした改元です。
幕府側が「明」字を用いることを要望して、新年号は定められました。

明応の政変。
明応2年、足利義稙(当時は義材)が河内に出兵している間に、細川政元(勝元の子)がクーデターを起こしました。
足利義澄を将軍に擁立し、細川政元が政権を握りました。
義稙は幽閉されましたが脱出し、近臣とともに越中にくだりました。以降、義稙は将軍返り咲きの機会をうかがいます。

細川政元は、山城・大和・河内へも守護代を派遣し支配しました。

明応8年。越前に移っていた足利義稙は上洛を目指しますが近江で敗れました。周防へ落ち延び、大内義興の庇護を受けました。

細川政元は、修験道に凝り、女人を近づけませんでした。実子がなく、養子を迎えていました(関白をつとめた九条政基の子。細川澄之)。

文亀

辛酉革命を理由とする改元です。
後柏原天皇に代替わりしています。後柏原天皇は践祚(皇位を継承)はしたものの、費用を用立てることができず即位式を行えませんでした。
(後柏原天皇が即位式を行ったのは、21年後の大永元年(1521年)でした)

文亀3年。細川政元は、家臣からの要望で細川家の血を引く細川澄元を養子に迎えることを決定しました。
細川政元は、ほかに細川高国も養子に迎え、三人の養子が存在することとなりました。

永正

甲子革令を理由とする改元です。

永正の錯乱。
細川政元の養子細川澄之派と細川澄元派の間で対立が深まりました。
細川政元は、澄元を後継者に決定しました。
永正4年(1507年)、細川澄之を支持する勢力が細川政元を暗殺しました。
しかし、翌々月には細川澄之方は、澄元方によって討ち滅ぼされました。

混乱する状況を見た大内義興が、足利義稙(当時は義尹)を奉じて西国から上洛しました。
細川高国は、足利義稙側につきました。
細川澄元と足利義澄は近江に逃れました。その後、澄元は阿波へ下りました。

足利義稙が将軍に返り咲きました。
足利義稙・大内義興・細川高国体制の政権となりました。

永正14年に大内義興は京を離れ、翌年帰国しました。
これを機に、澄元勢の動きが活発になります。
永正17年、澄元勢が京に攻め寄せました。細川高国は一時近江に逃れましたが、再び京を回復しました。
澄元が攻め寄せた際に、足利義稙は細川澄元と結んでいました。
高国と不和になった足利義稙は、永正18年(大永元年)3月7日に京都を出奔しました。
長く延引されていた後柏原天皇の即位の礼が行われる直前の時期に当たります。即位の礼はそのまま挙行されました(永正18年3月22日)。
足利義稙は、阿波に移りました。

大永

細川高国は足利義晴を将軍に擁立しました。
今回の改元は、細川高国による朝廷側への申し入れでおこなわれ、新将軍の代始を意識したものでした。

大永6年(1526年)7月、細川高国は、讒言を信じて重臣の香西元盛を死に追いやりました。
元盛の兄弟である丹波の波多野稙通・柳本賢治は反旗を翻し、阿波の細川氏・三好氏と連携します。
大永7年、桂川川勝寺の戦いで細川高国は丹波・阿波連合軍に敗れました。高国は足利義晴を連れて近江に逃れました。

足利義稙の猶子である足利義維(よしつな)とともに、細川晴元(澄元の子)・三好元長が、堺に上陸しました。
義維は寺社や公家に堺公方と呼ばれました。京には将軍(公方)が不在で、近江と堺に公方が両立する事態が出現しました。

享禄

後奈良天皇の代になっています。

享禄改元は、近江坂本にいた将軍足利義晴により発議されています。
堺公方(足利義維)側では、改元に2ヶ月の間従いませんでした。

堺公方側の軍勢と足利義晴方の軍勢の争いは続き、和議の試みもありましたが頓挫しました。
享禄4年、細川高国は、浦上村宗とともに兵を繰り出しましたが、三好元長に敗れ自害しました(大物崩れ(だいもつくずれ))。

享禄5年(天文元年)。
三好元長は、細川晴元と対立。
元長側の軍勢が晴元方の木沢長政を一時追い詰めると、晴元は本願寺に援軍を依頼しました。
本願寺勢(一向一揆)の勢いはすさまじく、元長側はことごとく打ち破られました。
堺の顕本寺にあった元長は敗れ自害しました。足利義維は、阿波に落ち延びました。
晴元はすでに足利義維ではなく足利義晴と手を結ぼうとしていましたが、この機に足利義晴との和睦が成立しました。

天文

当時近江にあった足利義晴によって申入れがおこなわれ、改元されました。

細川晴元は、一向一揆の力に驚き、鎮圧へ動きました。天文元年。六角氏・山門(延暦寺)・法華一揆とともに、一向一揆と戦い、山科本願寺を焼き討ちしました。
京では、法華一揆が勢力を増大させました。

天文3年、足利義晴が入京しました。

天文5年7月。天文法華の乱。
山門(延暦寺)・六角氏が京都の法華寺院を襲い、法華一揆を壊滅させました。京は戦火により大半が焼失しました。

細川高国系の反晴元派が散発的に蜂起を起こしていました。
天文12年には、細川氏綱(細川高国の養子)が挙兵しました。
その後も、細川晴元を打倒すべく断続的に戦いを挑みました。

細川晴元の被官三好長慶が力をつけていきました。
三好長慶は、晴元の側近三好政長と対立していました。対立は激化し、三好長慶は晴元とも敵対するようになりました。
天文17年から18年にかけての戦いで、晴元方の三好政長を敗死させました。
細川晴元は、足利義晴・義輝(義晴の息子)とともに近江へ逃れました。

天文18年。三好長慶の洛中進出。
そののち、天文21年には、足利義輝と和を結び、義輝は洛中に入りました。
再び義輝は挙兵し、敗退し朽木に逃れました。

弘治

三好長慶が芥川城(大阪府高槻市)を居城に、摂津・山城・丹波・和泉・淡路・阿波・讃岐を勢力圏におさめました。

永禄

正親町天皇の代始改元(だいはじめかいげん)です。
政権を掌握していた三好長慶が関与しておこなわれました。朽木に逃れていた義輝には2ヶ月の間、伝えられませんでした。
永禄元年。足利義輝が兵を起こすと、三好長慶は和議を結びました。義輝入京。

永禄3年(1560年) 、尾張で織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取っています。

永禄4年(1561年)は辛酉年でしたが、改元は行われませんでした。

永禄7年(1564年)は甲子年でしたが、改元は行われませんでした。
永禄7年(1564年)、三好長慶死去。
永禄8年(1565年)。足利義輝は、三好義継・松永久通らに攻め滅ぼされました。

永禄11年(1568年)。織田信長が奉じた足利義昭(足利義輝の弟)が上洛しました。

元亀

足利義昭が強く望んで実現した改元です。
元亀元年(1570年)。姉川の戦い。織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉連合軍が戦いました。
元亀2年(1571年)。織田信長が延暦寺を焼き討ちにしました。

天正

元亀4年(天正元年)(1573年)、織田信長は足利義昭を京から追放しました。
信長はすぐに朝廷へ改元を申し入れました。信長の意向で候補から天正が選定されました。

天正元年(1573年)、信長は、朝倉氏・浅井氏を滅ぼしました。
天正3年(1575年)、長篠の戦い。織田・徳川連合軍が、武田軍をうち破りました。

天正10年(1582年)6月2日、織田信長は明智光秀によって殺害されました(本能寺の変)。
6月13日には、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、明智光秀を破りました。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は後北条氏を征伐しました。

文禄

文禄元年(1592年)、文禄の役。豊臣秀吉は明の征服と朝鮮の服属を目指して朝鮮に出兵しました。

慶長

伏見大地震をうけて改元が進められました。
秀吉が改元定の人選にも関わり、候補から慶長を選定しました。

慶長2年(1597年)、慶長の役。豊臣秀吉は朝鮮へ再度出兵しました。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉死去。

慶長5年(1600年)。関ヶ原の戦い。

慶長8年(1603年)、徳川家康が征夷大将軍となりました。
慶長10年(1605年)、徳川家康が将軍職を辞し、徳川秀忠が将軍となりました。実権は家康が握り続けていました。

慶長20年(1615年)。徳川家康が豊臣秀頼を攻め滅ぼしました(大坂夏の陣)。

元和

豊臣秀頼を攻め滅ぼしたすぐあとに、徳川家康は朝廷へ改元を申し入れました。
幕府の意向で「元和」と決まりました。これは、唐の憲宗の代に用いられていたものです。
公家社会を規定する禁中並公家諸法度が定められました。そこで改元のさいには、中国王朝の年号から採用することと示されました。
ただし、改元の故実に習熟すれば、旧来の選定方法に沿って行うとされました。

元和2年(1616年)。徳川家康死去。

元和9年(1623年)徳川家光が、将軍に就任しました。実権は秀忠が握っていました。

寛永

甲子革令による改元です。前回の甲子年(戦国時代の永禄7年(1564年)にあたる)には行われなかったので、永正改元(1504)以来120年ぶりの甲子革令による改元となりました。
元和の時と違い、中国王朝の年号からではなく、中国の古典から吉字を選んでつくる旧来の方法に沿った年号となりました。

寛永9年。大御所・徳川秀忠死去。

寛永13年(1636年)寛永通宝が発行されました。
寛永14年(1637年)から15年にかけて、島原(長崎県)と天草(熊本県)のキリシタン農民が主体となり反乱し、島原の原城に立てこもりました。幕府は大軍を率いて攻めたて、殲滅しました(島原の乱)。

寛永19年(1642年)をピークとする全国的な大飢饉が起きました。(寛永の大飢饉)

正保

後光明天皇の代始改元です。

徳川家光の治世が続いています。

幕府側から見た江戸時代初期の改元事情について記した『改元物語(改元格)』という記録があります。
林鵞峰(林羅山の息子)が記したものです。元和から延宝までの改元についての記述があります。
正保改元について、改元物語に以下のような記述があります。
一年号三帝にわたる例がないとして、正保への改元が行われました。
徳川家光が「年号は天下で用いるものだから武家が定めるのは当然である。公家・武家の政治は正しいことにまさるものはない。正しくて保てば大吉である」と述べています。

慶安

徳川家光の治世が続いています。

慶安4年(1651年)徳川家光死去。徳川家綱が第4代将軍となりました。家綱は幼く、老中たちが政務を執りました。
慶安4年、軍学者由比正雪らが反乱を計画しますが事前に露見し鎮圧される事件がありました(慶安事件)。
同年、末期養子の禁が緩和されました。

承応

『改元物語』には、徳川家光がなくなり、徳川家綱が将軍に任じられたことによって改元が行われたとあります。
慶安5年(承応元年)9月。慶安からの改元直前、牢人の別木庄左衛門らが老中殺害を計画、発覚して処刑されました(承応事件)。

明暦

御西天皇の即位による代始改元です。

明暦3年(1657年)明暦の大火。江戸市街の大半を焼き、江戸城本丸・二の丸・天守閣も焼失しました。
天守閣は以後再建されませんでした。

萬治

明暦の大火を受けて、明暦から萬治へと改元されました。
江戸での災害を理由とした災異改元は初めてです。

寛文

萬治4年に京都でおきた大火を受けて、改元されました。

寛文3年(1663年)霊元天皇が即位しました。
『改元物語』によると、朝廷では代始の改元をおこないたいと考えていましたが、幕府はそれを認めませんでした。

寛文9年(1669年)シベチャリ(北海道日高管内新ひだか町静内)のアイヌの首長シャクシャイン率いるアイヌ軍が松前藩と戦いました。松前藩は、シャクシャインを謀殺し、アイヌ側は敗退しました。

寛文11年(1671年)儒学者・神道家の山崎闇斎が、吉川惟足から「垂加霊社」の号を授けられました。山崎闇斎の創始した神道は垂加神道とよばれます。

延宝

寛文13年の京都での大火などを理由とする災異改元です。
朝廷では、うちうちでは霊元天皇の代始改元としてあつかっていました。

延宝8年(1680)徳川家綱死去。

天和

天和改元は、文亀改元(1501)以来180年ぶりの辛酉革命による改元です。
徳川綱吉が第5代将軍となりました。

天和2年(1682年)井原西鶴の『好色一代男』が刊行されました。

貞享

甲子革令による改元です。
徳川綱吉の治世が続いています。

貞享元年(1684年)渋川春海が完成させた暦が採用されました(貞享暦)。
貞享2年(1685年)ころから、綱吉は、動物愛護、捨て子の保護といった「生類を憐れむ」法令を出していきました(生類憐みの令)。

貞享5年(1688年)井原西鶴の『日本永代蔵』が刊行されました。

元禄

東山天皇の代始改元です。

徳川綱吉の治世が続いています。

元禄8年(1695年)貨幣改鋳が行われました。当時、金の産出量の激減、出費の増大によって幕府財政が悪化していました。勘定吟味役の荻原重秀によって、慶長金銀を回収し金銀の含有量を下げた金貨・銀貨へ吹き替える改鋳が行われました。大きな出目(改鋳差益)を獲得しました。
萩原重秀は、元禄9年(1696年)に勘定奉行に就任しました。正徳2年(1712年)に罷免されるまで、いくたびもの改鋳を行いました。

元禄15年(1702年)松尾芭蕉の『おくのほそ道』が刊行されました。(松尾芭蕉はすでに元禄7年に没しています)
元禄16年(1703年)大阪の竹本座で、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が初演されました。

宝永

南関東大地震と江戸の大火を理由とした改元です。

徳川綱吉の治世が続いています。

宝永4年(1707年)10月4日。宝永地震。記録に残る日本最大級の地震で、とくに東海道・伊勢湾・紀伊半島で甚大な被害が生じました。
同年11月23日に、富士山の東南斜面から噴火しました。

宝永6年(1709年)綱吉死去。徳川家宣が第6代将軍となりました。
家宣は、一部を除き生類憐みの令を廃止しました。
家宣の側近である側用人・間部詮房、学者の新井白石が幕政を主導しました。

宝永7年(1710年)から翌年にかけて、萩原重秀は、大きく品位を引き下げた銀貨への貨幣改鋳を行いました。莫大な出目(改鋳差益)が生じ、幕府財政を補填しました。物価が高騰しました。

正徳

中御門天皇の代始改元です。

正徳2年(1712年)新井白石の強い弾劾を受けて、病床の将軍・家宣は萩原重秀を勘定奉行から罷免しました。家宣死去。
正徳3年(1713年)幼年の徳川家継(家宣の子)が第7代将軍となりました。
正徳4年(1714年)新井白石による貨幣改鋳が行われました。慶長金銀の品位に戻した良質の貨幣への改鋳でした。貨幣流通量が減少しました。

正徳6年(1716年)徳川家継死去。数え年で8歳での死去でした。

この時代の新井白石に主導された政治を「正徳の治」と呼びます。

正徳年間には、大阪の医師寺島良安による図入りの百科事典『和漢三才図会』や、貝原益軒による健康法についての著作『養生訓』が書かれています。

享保

将軍・家継が幼くして亡くなったことをきっかけに改元がなされました。
紀州藩主をつとめていた徳川吉宗が第8代将軍となりました。
家宣・家継の側近であった間部詮房、新井白石は失脚しました。
徳川吉宗によって主導された幕政改革を「享保の改革」と呼びます。

享保元年(1716年)吉宗は、第5代将軍・綱吉によって廃止された鷹狩を復活させました。
享保2年(1717年)大岡忠相が町奉行に任命されました。

吉宗は、幕府の財政状況を改善すべく質素倹約を励行しました。しかし状況は苦しく、急場をしのぐべく、享保7年(1722年)「上米
(あげまい)の制」が導入されました。諸大名に参勤交代での江戸在府を半年に短縮するのとひきかえに、毎年1万石につき100石の割合で献米をさせる措置です。
本格的に財政再建をするために、新田開発を積極的に行い、年貢の取り立てを厳しくしました。代官の綱紀粛正、勘定所の組織整備を進めました。
享保8年(1723年)に「足高(たしだか)の制」を実施しました。幕府の役職に勤める者の家禄が役職の基準高に満たない場合、在職期間はその基準額まで不足分を支給する制度です。これによって、幕府は、人物を登用する際に家禄を引き上げるのでなく在職中のみ支給する形になり負担が抑えられることになりました。これ以降、勘定所では、才幹ある小身の者が出世するケースが見られるようになりました。
これらの政策の結果、幕府財政は好転し、享保15年(1730年)には上米の制も廃止されました。

しかし、享保中期から米価が低落。享保17年ごろから米価が暴落し吉宗はその対策に頭を悩ませました。

元文

桜町天皇の代始改元です。

徳川吉宗の治世が続いています。

元文元年。貨幣流通量を増やすべく貨幣改鋳が行われました。新貨幣は大幅に品位を下げられました。今回の改鋳では新旧の貨幣の交換の際に、旧金100両に対し新金165両という大幅な増歩を付け、新貨の流通を促進させました。低迷していた米価が持ち直しました。

元文2年(1737年)、勝手掛老中に松平乗邑が任命されました。
さらに年貢の取り立てを厳しくしていきました。

寛保

辛酉革命による改元です。

徳川吉宗の治世が続いています。
寛保2年(1742年)、公事方御定書が完成しました。重要法令、判例や慣習を編纂したもので、裁判のさい判決の基準となりました。

延享

甲子革令による改元です。

徳川吉宗の治世が続いています。
延享元年(1744年)。年貢収入が江戸時代を通じて最高額に達しました。

延享2年。徳川吉宗が隠退し、徳川家重(吉宗の長子)が第9代将軍となりました。
松平乗邑が老中を罷免されました。

寛延

桃園天皇の代始改元です。
幼少での即位となりました。

寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』初演。

宝暦

宝暦事件。
朝廷では吉田神道が主流ですが、正親町公道が伝授を受けて以来、垂加神道を奉じる公卿も一派をなしていました。
このころ、垂加神道を修めた学者・竹内式部が徳大寺家に仕えていました。竹内式部の説には、従来の垂加神道に加え、天皇が学徳を身につければ、おのずと公家の天下になるという王政復古の思想がありました。
桃園天皇の近習たちは、竹内式部のもとで熱心に垂加神道を学びました。一部は武芸稽古しているとの噂もたちました。
近習たちは、桃園天皇に竹内式部の説による『日本書紀』進講を実現させました。桃園天皇の嫡母が従来の吉田神道からの逸脱に反対し、進講は中止されました。しかし桃園天皇は、ひそかに進講を再開させました。
関白ら摂関家は、朝幕関係を悪化させかねないものとして、宝暦8年(1758年)、桃園天皇の近習を処罰しました。
また、竹内式部を取り調べるよう京都所司代に申し入れ、審理の結果、翌1759年(宝暦9年)竹内式部は重追放に処されました。

宝暦年間なかばに、美濃国郡上(ぐじょう)藩(岐阜県郡上市)で、年貢増徴反対などの百姓一揆(郡上一揆)と石徹白(いとしろ)の神主が社人を追放する騒動(石徹白騒動)が起きました。
将軍・家重の指示で幕府評定所が郡上一揆と石徹白騒動の裁判をあつかうこととなり、吟味には家茂の側近・田沼意次が加わりました。
郡上藩主・金森頼錦は改易されました。

宝暦10年(1760年)、徳川家重が隠退し、徳川家治(家重の長子)が第10代将軍となりました。徳川家重は翌年なくなりました。
家治は、父の遺言に従い田沼意次をひきつづき重用しました。

明和

後桜町天皇の代始改元です。
後桜町天皇は現在のところ最後の女性天皇になります。

明和2年(1765年)、錦絵と呼ばれる木版多色刷りの浮世絵版画が登場しました。

明和事件。
明和3年(1766年)、江戸で私塾を開き儒学・兵学を教えていた山県大弐らが、幕府への謀反の疑いで逮捕され、翌年、処刑されました。
山県大弐が死罪、その食客の藤井右門が獄門に処されました。
藤井右門は、京で竹内式部や垂加派の公家と親交がありました。宝暦事件が起きると、京都を逃れて、山県大弐のもとに身を寄せていました。

後桜町天皇は、明和7年(1770年)に後桃園天皇に譲位しました。

明和9年(1772年)、目黒行人(ぎょうにん)坂から出火、江戸の大半を焼き尽くす大火が発生しました。(明和の大火)

安永

明和の大火を理由とする改元です。
明和九が「めいわく」と読むことから、明和九年は迷惑年と忌避されるなか明和の大火が発生し、改元の機運が高まりました。

年号を読み込んだ狂歌が残っています。明和から安永へと変わった際の狂歌。

年号は安く永くとかはれども
諸色高くて 今に明和九

安永3(1774年)、杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らが医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を刊行しました。
安永5年(1776年)。鳥山石燕の妖怪画集『画図百鬼夜行』が刊行されました。
安永5年(1776年)。円山応挙の『藤花図』が描かれました。

天明

光格天皇の代始改元です。

天明2年(1782年)から天明8年(1788年)にかけて、とくに東北・関東地方で大きな被害をもたらした飢饉が発生しました。(天明の飢饉)
天明3年(1783年)、浅間山が噴火しました。

天明6(1786年)、将軍・徳川家治が50歳で急死しました。田沼意次が失脚しました。
天明7年(1787年)、15歳の徳川家斉が第11代将軍に就任しました。このころ、米価がはげしく高騰し、5月から6月にかけて打ちこわしが日本各地で発生しました。
江戸でも5月に激しい打ちこわしが起こりました。この騒動の責任を問われ、御用取次から田沼派が一掃されました。
徳川御三家の推挙を受けていた松平定信が老中首座となりました。
田沼意次の政治に批判的であった松平定信は、幕閣に松平信明ら同志をそろえ、政治改革に乗り出しました。

天明8年(1788年)正月に京都で大火が発生しました。御所や市街の大半が焼失しました。

寛政

天明8年正月に京都で発生した大火による災異改元です。

松平定信が主導して、幕政改革にとりかかりました(寛政の改革)。
質素倹約を徹底、綱紀を粛正しました。代官の大幅な入れ替えが行われました。
大名・旗本に飢饉への備えとして各地で穀物の備蓄を命じました。江戸の町々でも金の積み立てを命じました。
旗本・御家人の困窮対策として、札差に天明4年(1784年)以前の負債の帳消し、以降のものは利子引き下げを命じました(棄捐令)。
札差は、俸禄米の受け取りと米屋での現金化の代行業からはじまり、貸金業を行うようになり富裕になっていました。この処置で札差は巨額の損害を被りました。
無宿人を収容する石川島人足寄場を設置しました。
武士には武芸と学問を奨励しました。
湯川聖堂の学問所において、朱子学を正学とし、陽明学・古学の講義を禁止しました。
学問奨励のために、学問吟味を開始し、旗本・御家人を対象とする試験を開催し、優秀者は褒賞しました。
学問吟味はこの後も行われ、優秀者は役職へ登用される可能性がありました。

寛政5年(1793年)7月、松平定信が老中を解任されました。ただ、寛政の改革の路線は、残った家老たちにより基本的には継続されました。

寛政9年(1797年)、湯島聖堂の学問所が幕府の直轄機関となり、昌平坂学問所となりました。

享和

辛酉革命による改元です。

享和2年(1802年)。十返舎一九の滑稽本『浮世道中 膝栗毛』が刊行され、好評を博しました。第3編で『東海道中膝栗毛』の外題となり、その後、『東海道中膝栗毛』『続膝栗毛』シリーズが文政5年(1822年)まで書き継がれました。

文化

甲子革令による改元です。

文化年間から次の文政年間にかけての、江戸を中心として栄えた町人文化を化政文化とよびます。

文化5年(1808年)。イギリス軍艦フェートン号がオランダ船を装い長崎港に侵入、オランダ商館員を人質に取り薪水を要求する事件が起きました。(フェートン号事件)

文化11年(1814年)曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』が刊行開始されました。(28年をかけて天保13年(1842年)に完結しました)

文政

仁孝天皇の代始改元です。
光格天皇は上皇として院政を行いました

文政元年(1818年)将軍・家斉は側用人の水野忠成を勝手掛老中首座に任命しました。
水野忠成は、貨幣の品位を低下させる改鋳を行うことによって出目(改鋳差益)を獲得し、財政を補填しました。

文政8年(1825年)幕府は異国船打払令を出しました。
文政8年(1825年)鶴屋南北作の歌舞伎『東海道四谷怪談』が江戸中村座で初演されました。

天保

文政13年に発生した京都での地震を理由として行われた災異改元です。

天保2年(1831年)頃。葛飾北斎の『富嶽三十六景』シリーズが刊行開始されました。

天保4年(1833年)から天保10年(1839年)頃にかけて、全国(特に日本海側から東北地方)に大きな被害をもたらした飢饉が発生しました(天保の飢饉)。
天保4年 (1833年)から翌年にかけて、歌川広重による浮世絵版画連作『東海道五十三次』が刊行されました。

天保8年(1837年)2月、元大坂東町奉行所与力の大塩平八郎らが、救民を訴えて大阪で乱を起こしました(大塩平八郎の乱)。
同年、徳川家慶(家斉の子)が第12代将軍となりました。家斉が大御所として政治の実権を握っていました。

天保12年(1841年)に大御所家斉が死去しました。
老中首座水野忠邦は、家斉の側近を罷免し、享保・寛政の政治を範として幕政改革を開始しました。
質素倹約、奢侈禁止を徹底し、風俗を厳しく取締りました。
農村の復興、物価引き下げを狙いましたが成果は上がりませんでした。
天保13年(1842年)、アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知り、打払令をあらため薪水給与令を出しました。
天保14年(1843年)、江戸や大阪近くの大名・旗本の領地を幕府領とし、代替の領地を与える処置を行おうとしました。これを上知令と言います。江戸や大阪周辺一帯を幕府の直轄地としようとする試みでしたが、反対が強く、実施されませんでした。この失敗で、水野忠邦は失脚しました。

弘化

天保15年に発生した江戸城本丸の火災を理由とした災異改元です。
本丸の再建費用を十分に集められなかったことから老中首座の土井利位が徳川家慶の不興を買い、水野忠邦が老中首座に復帰しました。しかし、忠邦に以前の権勢はなく、弘化2年(1845年)辞職しました。水野忠邦は老中阿部正弘らに在任中の不正を追及され、2万石没収の上、隠居・謹慎が命じられました。

年号を読み込んだ狂歌が残っています。天保から弘化へと変わった際の狂歌。

天保十六でなし(天保中ろくでなし)
是からどうか弘化(どうかこうか)よかろう

嘉永

孝明天皇の代始改元です。

嘉永6年(1853年)6月。黒船来航。ペリーが率いる米国の東インド艦隊が来航しました。
同月、将軍・徳川家慶が病死しました。
徳川家定が後を継ぎ、第13代将軍となりました。

嘉永7年(安政元年)(1854年)1月。前回の来訪から半年後、ペリー率いる米国艦隊が再び江戸湾に現れ、幕府は米国との間に日米和親条約を結びました。

安政

嘉永7年の内裏焼失、畿内の地震、異国船の来航を理由とする災異改元です。

年号を読み込んだ狂歌が残っています。嘉永から安政へと変わった際の狂歌。

世の中が安き政りと成るならば
嘉永そう(かわいそう)なる人がたすかる

この歌では安寧を願っていますが、実際には安政年間は多事多難でした。

安政年間には各地で大地震が発生しています。安政2年(1855年)には江戸でも大地震が発生し、大きな被害が生じました(安政江戸地震)。

病弱であった将軍・家定の継嗣について、一橋家の徳川慶喜を押すグループ(一橋派)と紀伊藩主・徳川慶福を押すグループ(南紀派)の対立が続いていました。
安政5年(1858年)、南紀派の井伊直弼が大老となり、日米修好通商条約に調印しました。徳川慶福(家茂)が継嗣に決まりました。家定が没し、徳川家茂が第14代将軍となりました。
一橋派は、条約を結ぶ際に朝廷の勅許を得なかったことを非難しました。
安政5年から翌年にかけて、井伊直弼は一橋派、尊王攘夷派への徹底した取り締まり・弾圧を行いました(安政の大獄)。

安政7年3月3日、大老井伊直弼は、水戸藩脱藩浪士や薩摩藩士によって暗殺されました(桜田門外の変)。

萬延

江戸城本丸が安政6年に焼失したことを理由にして改元されました。
翌年が辛酉年であり、すぐに改元される予定であることから反対もあったものの押して改元が行われました。

井伊直弼が暗殺されたのち、幕府は朝廷との融和政策に転じました。
万延元年(1860年)、孝明天皇の異母妹である和宮(かずのみや)を将軍・家茂の正室とすることを朝廷に要請しました。孝明天皇は、いったんは断ったものの攘夷鎖国の実行を条件に和宮の降嫁を認めました。

文久

辛酉革命による改元です。
明治改元の際に一世一元の制が採られたので、以降は辛酉革命による改元はありません。

文久2(1862年)4月、薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて上京しました。島津久光は藩主の父親で「国父」と呼ばれ、藩の実権を握っていました。
久光は江戸への勅使に随行しました。徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功しました。
江戸から帰国途中、行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを、薩摩藩士たちが殺傷しました(生麦事件)。

文久3年には、朝廷は過激な尊王攘夷派の公卿が席巻しました。尊攘激派の公卿と長州藩勢力は、天皇親征を計画しました。
文久3年8月18日(1863年9月30日)、孝明天皇は会津藩・薩摩藩の力で、尊攘激派の公卿と長州藩勢力を追放しました(八月十八日の政変)。

元治

甲子革令による改元です。
明治改元の際に一世一元の制が採られたので、以降は甲子革令による改元はありません。
この改元では、朝廷は幕府に対して「令徳」「元治」などを提示し、特に「令徳」が良いと提案しました。幕府側では「徳川に命令する」と取れる「令徳」は不評でしたが、それを直接通告することはできませんでした。松平春嶽による中川宮朝彦親王らへの働きかけで「元治」に定まりました。

元治元年(1864年)7月。前年の八月十八日の政変で京都を追放されていた長州藩勢力が、武力でもって入京をはかり御所内に一時侵入しましたが、薩摩藩・会津藩によって撃退されました(禁門の変(蛤御門の変))。この戦闘で火が出て、京都市街の広い範囲が焼失しました。
朝廷は、長州追討を幕府に命じました。
8月。下関海峡封鎖を継続している長州藩に対して、英仏蘭米の4国連合艦隊が馬関と彦島の砲台を砲撃し、占拠・破壊しました。
10月。征長軍が大阪で軍議。意見を具申した薩摩藩の西郷隆盛が征長軍の総督・徳川慶勝から長州処分を委任されました。
西郷隆盛は長州藩と交渉し、長州藩は抗戦せず降伏、征討軍は撤兵しました。

慶応

元治元年の京都騒擾、大火を理由とする改元です。

慶応2年。幕府は再度、長州藩へ征討軍を送りました。薩摩藩は征討に反対し、兵を出しませんでした。戦端が開かれると、幕府軍は各所で敗退し、征討は失敗しました。将軍・家茂が病没しました。
慶応2年12月5日(1867年1月10日)、徳川慶喜が第15代将軍に就任しました。
慶応3年(1867年)、大政奉還の上奏が行われ、幕府が保持していた政権を朝廷に返上することを表明しました。しかし、朝廷で政治を担うことはできず、実質的に幕府が政権を維持しました。
薩摩藩を中心とする倒幕派は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)にクーデターを起こし、朝廷を掌握すると王政復古の大号令を発しました。
慶応4年(明治元年)1月3日(1868年1月27日)、大阪から京都へ向かった旧幕府軍と街道を封鎖した新政府軍が京都南郊で接触、戦闘となり新政府軍が勝利しました(鳥羽・伏見の戦い)。新政府軍は徳川追討の軍を起こし東征、旧幕府派と戦い敗退させました。一連の戦いを戊辰戦争とよびます。


参考文献

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藤田 覚 『勘定奉行の江戸時代』(筑摩書房、2018)
井上 智勝『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』(講談社、2013)
伊藤 聡『神道とは何か – 神と仏の日本史』(中央公論新社、2012)
渡邊 大門 『戦国の貧乏天皇』(柏書房、2012)
藤田 覚 『江戸時代の天皇 (天皇の歴史)』(講談社、2011)
久留島典子 『一揆と戦国大名 日本の歴史13』(講談社、2001)
横田 冬彦『天下泰平 日本の歴史16』(講談社、2002)
井上 勝生 『開国と幕末変革 日本の歴史18』(講談社、2002)
榎原雅治・清水克行 編 『室町幕府将軍列伝 』(戎光祥出版、 2017)
日本史史料研究会 監修、 平野 明夫 編集 『室町幕府全将軍・管領列伝 』(星海社、2018)
今谷 明『戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007)
澤井 啓一 『山崎闇斎―天人唯一の妙、神明不思議の道』(ミネルヴァ書房、2014)
大石 学 『徳川吉宗―日本社会の文明化を進めた将軍 (日本史リブレット人) 』 (山川出版社、2012)
平賀 泥水『山県大弐と宝暦・明和事件—知られざる維新前史 』 (日吉埜文庫、2013)
藤田 覚 『田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房、2007)
高澤 憲治 『松平定信』(吉川弘文館、2012)
福留 真紀『名門水野家の復活 ――御曹司と婿養子が紡いだ100年』(新潮社、2018)
北島 正元『水野忠邦』(吉川弘文館、1987)
家近 良樹 『徳川慶喜』(吉川弘文館、2014)
町田 明広 『島津久光=幕末政治の焦点』 (講談社、2009)

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